国民国家における国民経済、国民生活は常に
- 自然の脅威
- 自滅の脅威
- 外敵の脅威
3 つの生存の脅威に晒されている。国土的特徴はその生存の脅威そのものでもあり、逆に恵みでもある。日本人はその国土での歴史的経験と個性を育まれてきた。
自然の脅威とその恵み
日本列島は
- 弓状列島
- 長く複雑な海岸線
- 四つに分かれた国土
- 脊梁山脈の縦貫
- 脊梁沿いに大量の短く急勾配な激流河川
- 少ないうえに一つ一つが狭い平野という空間的分断とその空間的分断によって時間的にも分断されているという地形的・地理的特徴を持ち
- 不安定な山地の地質と軟弱な都市の地盤
- 河川の氾濫原上の都市
- 豪雨の集中・貯水の困難
- 強風の常襲地帯
- 広大な豪雪地帯という気象的条件による災害のリスク
さらにプレート上に存在するため世界最大の震災大国であると同時に火山大国でもあるという非常に過酷な自然条件に置かれている。そのような特徴を持つ国土のこそが生存の大前提であるため、国土的に強制的な制約が課せられている。
同時にまた、非常に豊かな森林資源、海洋資源の恩恵を受けると同時に地政学的には海という自然の要塞に囲われて外敵の脅威に対しては非常に守られてきたことによって、非常に豊 かな言語や文化風習などが育まれてきた。
特にユーラシア大陸と日本の文化の違いについて考察された梅棹忠雄の文明の生態史観によると、ユーラシア大陸には大きく2種類の地域に分かれた文明圏が存在する。

辺境の日本や西欧諸国の第一地域
この地域は地政学的に暴力と破壊の源泉である乾燥地帯から物理的に断絶されたことにより、封建制という制度を経て「民主制(議会制民主主義)」国家へと至った。一方、大陸を横断する広大な乾燥地帯に暮らす遊牧民から頻繁に侵略された第二地域の周辺国は「帝国」を形成した。
第二地域の帝国では皇帝権力の分散は内戦を誘発し帝国の瓦解を意味するため、歴史的に封建制は発展しなかったというような制度的な特徴を生みました。
図1が梅棹忠雄の文明の生態史観の概略図です。
大きな楕円がユーラシア大陸を表しており、ユーラシア大陸を横断するように乾燥地帯が広がっています。
この乾燥地帯に隣接した地域が第二地域とされる帝国を形成した地域であり、中華帝国、インド帝国、ロシア帝国、中東イスラム帝国に4大ブロックに分かれます。
辺境の日本や西欧諸国の第一地域。
この地域は乾燥地帯から物理的に断絶され、封建制を経て「民主制(議会制民主主義)」国家へと至るという地政学的な特徴から文明の分析をした図になります。
さらにその第二地域においても日本はさらに特異な特徴を持つと大石久和氏はいう。 大陸内にある西欧においても、第二地域の乾燥地帯からの「侵略」と同様に常に隣接する外国からの「侵略」よる略奪・虐殺・奴隷化と隣り合わせという状況で歴史を紡いできた。つまり大陸においては別に乾燥地帯に隣接していなくても、常に「侵略」の危機に備えなければならなかった。備えを怠れば、愛する肉親・身内を亡くす。ユーラシアでは死は紛争・戦争という侵略者による殺害の歴史でもあったという話です。残されたものは相手を恨みぬき、復習の誓いを立て肉親の死に対して気持ちの整理する と同時に次の戦いにおける確実な勝利をもぎ取るために、徹底的な合理思考のもと準備を整える。徹底的にリア リズムでなければならない「軍事」「戦争」と共にあったため一神教的権力の集中、抽象性は排除された言語な ど危機に対する「応戦と闘争」の文化が構築された。
一方、島国日本は大東亜戦争以前で日本が受けた本格的な侵略は元寇のみで「侵略」を恐れる必要はなかった。 日本人は歴史的に身内を紛争ではなく、大震災や台風被害といった自然災害「災害」で亡くし続けた。恩恵を与え暮らしを支えてくれる自然が引き起こした死に対して粛々と受け入れるしかなかった。防災にも、限界がある。 結果、日本人は災害後に、互いに助かったことを喜び合い、身内の死を受け入れ、復興し同じことを繰り返す。 水に流すという言葉もある。日本では危機に対する「諦観と受容」という文化が構築された。
現在、政府の緊縮財政によって、ひたすら国力は凋落し、貧困化と困窮に晒されながらも「国民は災害として耐え忍んでいる。」と同時に失政の責任者たちが責任を問われず、間違ったことを繰り返し続けている。 大東亜戦争という、敗戦に終わった時点では日本国民の多くが「やっと耐えがたき災害が終わった」と同時に反省しますと言いつつ、戦争突入から敗戦に至るまでの分析をろくにせず、同じことを繰り返そうとしていることから経済の失政や戦争に対してもこの災害死史観の「諦観と受容」を抱いているのではないかという仮説のもとグローバル化によって大陸各国の「応戦と闘争」、日本の「諦観と受容」という危機への対応の違いが致命的になるのではないかというのがこの紛争死史観と災害死史観の問題提起です。
そして第3にこの紛争死史観と災害死史観の問題提起と同時並行的に生じているの自滅の脅威。 夥しい数の人々で構成される社会が繫栄するためには、全員の間の「秩序」が必要不可欠です。「秩序」がなけ れば、人々の間に大小さまざまな諍いが絶えない状態になり社会は早晩必ず「自滅」にいたる。秩序とは「治安」 のみならず、「地域社会の持続性」や「国民経済の持続性」や持続不可能なほどに大きな「格差拡大を防ぐ」と いうことを意味する。そこで問題となってくるのが行き過ぎた個人主義の問題です。
自由主義における「神」の存在
西洋思想における「自由」の根本にはキリスト教的な「この命、財産は神からの預かりものだ」という前提のうえ、神から与えられた知性をもって共同体の中から自然発生的に生まれた法、自然法に制約される。その制約 の中で、命・健康・財産・自由を奪われない権利と、奪わない制約をもち、平等に隷従されずに自由に振る舞う ことが「自由」となる。そして共同体が大きくなり、自然法のみで社会秩序の維持が困難になった時、政府とい う権力を作り、社会契約論的に一部権力を委任する形で社会秩序を維持強化し共同体を安定させる。
つまり神によって与えられた共同体の中から生まれた自然法を基にした自由が本来の「自由主義」であると考えると、「神の意思」≒「共同体の意思(自然法)」とも考えられる。そしてさらに重要な点は、「人間が動物と 違い本能に従う以外の無数の行動の選択肢を持つ」という意味で自由なのだという論点がある。2つの文脈を通 じて、「神」なき自由主義は、個人主義的で本能的な我儘奔放なる欲望の追求に帰結する。
資本主義における「神」の存在
また、プロテスタント的な「神に預かった身体、財産・土地を活用して天職に邁進し公共に貢献することこそが救済の証である。その神の恵みに対する裏切りに行為に対しては財産(土地)を公共に返上すべし。」という信 仰心・厳格な神の教えこそが、逆機能的にもしくは予期しない結果として資本主義を開花させた。しかし、「神 に対する信仰心」を失うことで資本主義は、「共同体から生まれた自然法」、「本能に抗う行動選択の自由」を 失い、個人の利益の最大化という個人主義的で我儘奔放な欲望の追求を正当化し、共同体全体の豊かさを追及す るものではなくなる。それどころか個人利益の拡大に飽き足らず、自己責任論により公共が共同体を救うことを 否定することで、規制を無くすと同時に公共資本を私物化・ビジネス化するための新自由主義に帰結する。
政における「神」の存在
祭り・政は本来、神社・仏閣・お地蔵さんなど生きた信仰、土着の共同体の文化・風習を基に行われ、宗教心・信仰心という大いなる神との繋がりを持って、個々人の精神性を高め、共同体の一体感と活力を高める礎になる 活動である。人間は個人で生きていくとはできず、祭り無しに共同性を感じられない。 合理的、論理的思考による個人主義、自己利益の最大化を追及することこそが幸福に繋がるという思考は人々を 共同体から遠ざけ、個別バラバラにする。バラバラにされた個人は新自由主義的な弱肉強食の経済競争に巻き込 まれるも、個人主義・自己責任論ゆえに公共の支援を受けられない。生活のみにフォーカスすれば、両親や友人 など共同体の助けを得られたなら、お金の問題クリアできる。個人主義と自己責任が行き過ぎたせいでお金以外 の時間を費やした助け合いや人間関係という解決策が不自由なしがらみでしか無くなり、それよりもお金を使っ てでも人間関係からの解放を望んでしまう構造の中現在、都心における流動性の高い層は地元に根付かず「滞在 者」として孤立している。 個人が共同体から孤立するからこそより政治権力から遠ざけられ、政治そのものも議論や熟慮というプロセスは 無視される。もはや政治すらも、自己責任論により共同体を救うことを否定すると同時に個人主義的で本能的な 我儘奔放なる欲望の追求を正当化し公共資本を私物化・ビジネス化するための新自由主義的運動となり、誠実さ や当事者意識も同胞意識のカケラもないカジノ建設や、拝金主義のコンサルがカネのために実施する政治の主導を行う有様になり果てている。政から信仰心聖なる精神が失われた「神なき政」は「全体主義的な金権ポピュリ ズム政治」に帰結する。
「神なき自由主義」=「個人主義的な我儘奔放な欲望の追求」、「神なき資本主義」=「新自由主義的な株主金 融資本主義」、「神なき政」=「全体主義的なポピュリズム政治」三位一体となってそれぞれがそれぞれを強化 し合うと共に、多重の階層をもつ入れ子構造になり、さらなる強力な強化のフィードバックループを生じさせ日本の経済と共同体精神の崩壊を導いている。
経世済民の維持・実現には自由な市場経済と政府の管理による規制強化と福祉国家的な格差拡大の抑制の双方 が必要であり、財政破綻論の是正と共同体意識の回復正しい貨幣観と国家観を広めることが喫緊の課題である。 そのために、全世界に「永遠で普遍的かつ最良のイデオロギー」は存在しないという大前提に立ち、リベラリズ ムによる行き過ぎた個人主義を是正し、社会的凝集性ナショナリズムを高める。そして積極財政によって生産性、 制度、時間的永続性、人口規模など国力の回復を同時並行的に行い自国内の経世済民を目指す必要がある。
